明治時代の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻セツをモデルにしたNHK連続テレビ小説「ばけばけ」が最終週を迎え、八雲最晩年が描かれる。小泉夫妻と八戸市に縁があることは、2025年の新年号で触れた(関連記事参照)。それと関係があるのか、市立図書館には、八雲宛ての書簡や新聞・雑誌の記事が貼られたスクラップ帳が所蔵されている。誰が何のために作ったスクラップ帳なのか、実物を閲覧してきた。
□小泉夫妻と八戸の縁

小泉家に復籍したセツは八雲との間に3男1女をもうけ、次男の巌(「ばけばけ」では勲)を稲垣家に養子入りさせた。
巌は学生時代に八戸の一松堂医院の娘・翠(みどり)と結婚。中学教師となったが、1937年に40歳で亡くなった。翠は34年に3人の子どもと八戸に帰っていた(小野木重治編著「ある英語教師の思い出:小泉八雲の次男・稲垣巌の生涯」恒文社、1992年)。郷里では下宿を営み、後に「忍ぶ川」で芥川賞を受ける三浦哲郎さんも翠の下宿から八戸高に通った。
三浦さんは随筆「松江で思い出したこと」(「笹舟日記」所収)で、「稲垣のおばさん」が八雲の著作を読みたかったらいつでも貸してあげると話していたことなどを振り返っている。
翠は1978年に80歳で死去。青森県立八戸高卒業まで八戸で過ごした翠の長男稲垣明男さんは、2004年にギリシャで開かれた八雲没後100年式典に出席し、本紙で「祖父・小泉八雲 私のルーツ ギリシャを訪ねて」を10回連載した。
没後100年式典はこの年、八雲一家が毎年夏を過ごした静岡県でも開かれ、明男さんの姉八重子さんが八戸から、同じく京子さんが三沢から参加した。
ちなみに、八雲の日本名が「古事記」に登場する歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を由来とすることはよく知られているが、初孫の八重子さんの名もここから取られたという。
□先行研究によるセツ作成説
八戸市立図書館では30日まで、1階エントランスに、八戸と小泉八雲の関わりを伝える郷土資料展示コーナーを設けている。25年正月の本紙記事も、八雲関係の書籍と共に並んでいる。

表紙にはややくせのある片仮名で「コイヅミヤクモ」のタイトルとヘチマの絵。ページを1枚めくると有名な八雲の横顔写真が貼られている。記事は1891(明治24)年以降のもので、1904(明治37)年の八雲死去関連の記事や、新聞・雑誌の評伝が中心になっているようだ。コピーではないため、明治時代の人間が収集した記事群なのは間違いない。文章に線を引いたり、出典の新聞や雑誌の名前を書き込んだりしているものもある。
このスクラップ帳に関する研究もあり、セツが作成した物を翠が八戸に持ち帰ったと考えられている。
「矢張りこのスクラップ・ブックを編んだ人物は明治三十七年当時三十五歳であった節子夫人を想い浮べるのが、何かしら妥当のようにも思えるのである」(広瀬朝光「八戸のコイヅミヤクモ」、岩手大学人文社会科学部「歴史と文化」所収)
「セツ夫人が収集した主として新聞記事などの資料が貼ってある。稲垣巌の妻ミドリが八戸の実家に戻るときに、セツ夫人がもたせたものである」(大妻女子大ほか「L.ハーン関係未公刊未訳資料の整理と公刊」1999年度研究成果報告書概要)
ただ、翠が八戸に戻ったのが先に挙げた巌の伝記の通り1934年だとするとセツは既に亡くなっているので、八戸に帰る翠にセツがもたせたというのは疑問が残る。
同館によると、スクラップ帳は八戸の雑誌「北方春秋」編集や「アミューズ」発行にも携わった郷土史家の中里進さん(1922~2008年)が1970年に寄贈した物だという。
最初の八戸市史が編さん事業が進んでいた頃で、中里さんはこの時、八戸周辺で収集した約700点もの史料の保管を図書館に託したが、うち計50点の逸見興長家文書の中にスクラップ帳が含まれていた。だが、同館でも「それ以上は分からない」としており、なぜ八戸藩主家の親類である逸見家の資料の一つとして寄贈されたのかは不明だという。
□新聞送ったのは“ニシコオリサン”モデル?

スクラップ帳に貼られた2通の書簡は広瀬氏の「八戸のコイヅミヤクモ」で分析されており、一通がしょうゆ醸造業(ヤマサ)の浜口儀兵衛から、もう一通は京都の末慶寺住職和田準然から、それぞれ八雲に送られたものだ。
浜口は、幕末の地震津波で村人を救った祖父のいわゆる「稲むらの火」の物語を、八雲が著作「仏の畠の落穂」で取り上げたことへの感謝をつづっている。和田の書簡は、末慶寺にある畠山勇子(ロシアの皇太子が津田三蔵に刺された大津事件を憂えて自害)の墓を八雲が訪ねることに関するもので、訪問の記事が掲載された1895(明治28年)12月8日の「読売新聞」の切り抜きも併せて貼られている。セツがスクラップ帳に貼った書簡としては選択が少し渋い気もしないでもない。
表紙をめくって貼り付けられているのが、刊行物でよく見る横向きの八雲の顔写真だ。セツが作成した物なら家族で撮った写真などでもいいのではないかという気もするが、うまく撮れていてお気に入りの一枚だったのだろうか。
一方で、やはり八雲に近しい人物でなければ収集が難しい資料を含むのも事実だ。最も古い新聞記事は、死亡した島根・松江の中学生3人の追悼式を報じた「山陰新聞」1891(明治24)年12月23日の記事の切り抜き。松江の中学教師だった八雲は既に熊本に移住しているが、死亡した生徒は元教え子だったのだろうか。
「八戸のコイヅミヤクモ」では、生徒の死亡について、当時コレラが流行していたと指摘。八雲の松江時代の同僚西田千太郎が日記で追悼式について触れており、「ヘルン氏(八雲)に『山陰新聞』を送り、教え子の葬式の模様を伝えたのかも知れない」と推測する。西田は「ばけばけ」では吉沢亮さんが演じた錦織友一のモデルである。
実物を見ても不思議な資料という印象だ。だが、八雲存命時の記事も含まれ、死去や評伝関係が多いことを考えると、セツかはともかく八雲の身内が作成した可能性が高い。
1950(昭和25)年6月27日付本紙には、「きょう八雲生誕百年祭」という記事があり、稲垣翠さんと子どもたちが八雲とセツをしのんでいる。その中で「遺稿遺品を手に」と記され、スクラップ帳にはない八雲の遺稿の写真も掲載されている。稲垣家は八雲の遺品をいくつか所蔵していたとみられ、スクラップ帳も翠さんが八戸にもたらした資料の一つだったのだろう。






