Free【東京五輪出場】本村直樹ヒストリー㊦ 努力の階段上り7人制へ
本村が7人制ラグビーにかじを切ったのは、大学3年の春。7人制の大会で、筑波大が優勝。その大会のプレーが関係者の注目を集め、7人制学生世界選手権のメンバーに選抜された。
代表チームは、後にリオデジャネイロ五輪ラグビー日本代表のヘッドコーチを務めた瀬川智広氏が指導。「過去一番つらかった」というハードな練習を経験したことで、本村の意識にも変化が生まれた。「上にいる人たちには才能があると思っていたが、それだけではなかった。きつい練習をして、このポジションにいるのだと分かった」。自分も努力の階段を一つ上がらなければいけない-と大きな刺激を受け、7人制にのめり込んだ。
大学卒業後の16年にはラグビーのトップリーグに所属する「HondaHEAT」に加入。大学とのレベルの差に苦労しながらも、試合出場をかなえるなど多くの経験を重ねた。それでも、「7人制でプレーしたい」との思いが強く、チームメートでリオ五輪代表のレメキ・ロマノ・ラヴァを通じて「セブンズ」首脳陣にアピール。17年に初めて代表に招集され、以降、徐々に代表での存在感を増していった。
現在は、所属先の15人制の試合にはほとんど出場せず、7人制のスケジュールを優先している。リオ五輪の代表メンバーの多くが15人制でも活躍していたことから、「当初は両立も考えた」というが、けがが多いなど苦労も多く、7人制に特化していくことを決断した。本村の持ち味であるスピードも存分に生かせる7人制。「15人に戻ると、人が多いなと思ってしまう」と笑う。
東京五輪は28歳で迎える(編注:20年当時)。開幕の時が刻々と迫る中で、本村の心境は徐々に変化している。「前までは、28歳で東京五輪を迎えられることが幸せだと思っていたが、今はそれだけではない。最近はもっと、東京が近くなって、結果を残さないといけないというプレッシャーのようなものを感じる」
W杯で、国民のラグビー熱が最高潮に盛り上がった。その熱が冷めないうちに迎える、自国で開催される五輪。ここで結果を出せれば、15人制と同じように「歴史がつくれる」と信じている。注目されている自覚があるから「メダルを取る」というチーム全体の目標に対しても、大きな責任とやりがいを感じている。だからこそ「早く練習できるようになりたい」。焦る気持ちをなだめるかのように、そっと右脚をさすった。
19年の新語・流行語大賞に選ばれた「ONE TEAM(ワンチーム)」。W杯で日本代表を率いたジェイミー・ジョセフHCが掲げたテーマで、選手が思いや心を一つにすることで、チームは機能する-というチームワークの大切さが込められている。
球技の中で珍しく、プレーヤーへのボディコンタクトが許されており、味方の「トライ」のためには、体格に劣る相手にも、決死のタックルを仕掛ける。「チームのために」と結束し、身を削る姿は、ラグビーならではの「チームワーク」の表れだ。
7人制は今後、代表合宿や各種大会などで選手それぞれの技量が評価され、6月にも代表内定者が発表される見通し。代表争いは佳境を迎えるが、「自分が選ばれなかったとしても、誰が選ばれたとしても背中を押して応援できる」と言い切り、「一番大事なのは、チームとして勝つこと」だと強調する。
五輪でメダルを獲得するために、世界の上位に位置する国々を倒すために、今何が必要なのか。選手間、スタッフ間でこれまで以上に話し込んで結束力を高め、チームをつくり上げていきたい-と力を込める。「その中で自分らしさを出していきたい。パフォーマンスを上げて、チームに貢献したい」
【東京五輪出場】本村直樹ヒストリー 月刊Dash20年1月号より
㊤ 「今度は自分たちが歴史つくる」
㊥ 八戸高1年でラグビーに