Free(3)「父の背中」 漠然と建築家の夢抱く

八戸国民学校の庭で記念撮影する千葉一彦ら八戸学生団。2列目右端に三浦哲郎の姿も(本人提供)

千葉一彦が中学2年の時、建築家の父寅一が死んだ。八戸市を退職して民間の建設会社で働き、盛岡市の事務所と八戸を往復していた。長女の結婚式のため八戸に来ていたが、式の時にはかなり体調が悪化していたように見えたという。終戦の年、1945年春のことで、勤労動員のため近郊の山中にいた千葉は、臨終には間に合わなかった。

もう戻ることはないと覚悟してか、父の事務所の机は整理され、鉛筆もきれいに削られていたという。「ああしろこうしろと怒られたという記憶もない。優しかったとか、何か教えられたというのもあまり思い出せない」。千葉の中で、多忙だった父の記憶は薄い。それでも、その背中を見続けていた千葉は、漠然と「将来は同じ建築家になりたい」との思いを抱くようになっていた。

戦中から戦後にかけての中学、高校時代には多くの仲間との出会いがあった。八戸国民学校(現八戸小)出身の八戸中(現八戸高)の生徒は、「八戸学生団」を組織していた。校外活動を通じた精神鍛錬を目的としており、1学年上には、後に芥川賞作家となる三浦哲郎がいた。

この集団から分派した「雄南社」にも千葉は所属した。千葉は、中でも特に仲の良かった4人と共に「五人組」を自称した。後の青森県議岩岡三夫、免疫学が専門の東北大教授熊谷勝男、八戸赤十字病院に勤務し学校薬剤師としても活動する石橋恭藏、八戸製氷冷蔵専務で八戸食品衛生協会会長を務める橋本賢司だ。

ある時、千葉が所属する美術部で「八戸女子高(現八戸東高)との合同展をやろう」との話が持ち上がった。この時、女子高側との折衝に奔走したのは岩岡で、49年秋に実現させた。千葉は「アイデアマンで、さすが後に政治家になるだけのことはあった。5人は良いことも悪いことも一緒にやった仲間。今では私1人になってしまったが…」と親友たちをしのぶ。

50年春、千葉は大学受験で日本大工学部建築学科に合格した。建築家を志していたものの、高校入学後、肝心の理数系の成績が良くない中、何とか建築学科の合格通知を手にした。

中学時代の千葉一彦が描いた油彩「蕪島の風景」(本人提供)

ところが、である。たまに美術部に指導に来ていた講師が、日大進学に反対した。野辺地町出身の彫刻家小坂圭二(1918~92年)だ。小坂は後に、高村光太郎の「乙女の像」制作をサポートしたほか、東北町の「小川原湖姉妹像」、十和田市の新渡戸傳(つとう)・十次郎・稲造3代の像など、青森県内にも多くの作品を残すことになるが、この頃、東京芸術大を卒業し、同大の助手となっていた。

その小坂が勧めたのは、東京芸術大工芸技術講習所(のち美術学部工芸計画専攻)の受験であった。「講習所の存在すら知らなかったが、小坂さんの説得に負けて方針転換してしまった」。それは、父と同じ道からはややそれた方向へ進むことでもあった。

同大卒業生や他大学で美術を学んだ学生が多く入所する機関だが、数少ない高卒受験生の千葉も描画力などを競う試験を突破、見事合格者15人の中に名を連ねた。他動的にではあったが、戦後デザイン教育の最先端に身を投じていくことになったのである。

 
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