Free【北奥羽の地名】八木田(南部町)/南部氏の家臣に由来か
南部町の片岸地区と斗賀地区にある小字で、旧福地村と旧名川町の境界をまたいでいる。
室町から戦国時代にかけ、三戸南部氏の家臣だった八木田氏が城館を構えていたことが関係するとみられ、周辺には他にも八木田河原、八木田下といった地名が残る。
八木田氏のルーツは定かではないが、主君である南部氏の24代晴政の本拠地・聖寿寺館に放火した赤沼備中の次男が創建したとされ、現在は苫米地地区にある御嶽神社が元々は八木田館近くにあったことから、八木田氏も赤沼氏の一族だった可能性もある。
「名川町の歴史」(金澤啓三郎著)によると、晴政と後に26代となる信直の身内争いのさなか、赤沼氏とともに信直派だった八木田氏に対し、晴政が集落に火を放ち威嚇。八木田氏は館を捨てて落ち延びたとされる。
八木田氏や赤沼氏の資料は少ないが、1393(明徳4)年に修験者が死者を供養するために築いたとされる「八木田の十三塚」のうち9基が八木田地区に現存。御嶽神社が近くに鎮座していたことをしのばせる。