Free【北奥羽各駅めぐり】⑨三戸駅 食い違う駅名と所在地
青い森鉄道の三戸駅は、三戸町との境界となる馬淵川に架かる住谷橋に近い南部町大向泉山道に立つ。「南部町なのに、駅名はなぜ三戸か」と不思議に思う利用者も多いだろう。背景にはいわゆる「鉄道忌避伝説」があるといわれる。
各種資料や住民によると、1891(明治24)年開業の三戸駅(当初は「三ノ戸駅」)は元々、三戸町の中心部に近い梅内地区に建設される予定だった。
諸説あり経緯分からず
三戸町史によると、町内の農民らは大方反対。賛成派の間でも駅舎の場所選びなど利害関係を巡る誘致合戦やトラブルがあったと指摘する。内陸部の線路敷設を求める陸軍の要望など富国強兵を目指す当時の世相にも触れている。
一方、南部町誌では「鉄道が敷かれ停車場が、三戸、(隣駅の)諏訪ノ平に設置され、その上、果樹の産地であったので、果菜市場が設置されてから発展した」と強調。開業当時は一帯に桜の木が植えられており、石川啄木が桜を詠んだ08(明治41)年発表の短歌も紹介している。
旧向村にありながら「三戸」と名付けた経緯ははっきりしない。町史は旧石切所村に建設され、隣町の「福岡」を駅名にした二戸駅のケースを挙げている。
三戸駅に勤務経験のある元国鉄マンでIGRいわて銀河鉄道二戸駅の中村和広さん(62)は「広い意味で三戸郡だから」と話す。当時は「乗客に町役場の場所を訪ねられると、三戸か南部か、どちらか確認しなければならなかった」とこぼれ話を披露してくれた。
かつては旅客に加え貨物も取り扱い、三戸町や田子町など郡内全域から集まったリンゴや野菜、木材などが積み出された。町村の境界を越えて鉄道の恩恵は広く行き渡っていたはずだ。
近くの80代の男性は「戦後の食糧難の時代、夏は馬、冬は馬そりで農家が農産物を持ち寄り、駅前で市が立った」と述懐。駅前で1893年ごろから営業する老舗「清水屋旅館」のおかみ、極檀純さん(51)は「近年は街道を歩くのが人気で、個人や夫婦の旅行者も多い」と話す。