Free(5)「映画界へ」 名作誕生の現場に参加
1953年、東京芸術大を出た千葉一彦は映画会社・東映に入社した。美術専門の社員を欲したのか、筆記試験で映画の問題はほとんどできなかったにもかかわらず合格した。募集要項に採用人数は1名とあったが、一緒に受験した友人と共に採用され、宣伝部に配属となった。工業デザイン系の仕事を志していたはずの千葉だが、「他で採用が決まっていたわけでもなく、映画会社でもまぁいいかくらいの気持ちだった」と当時の心境を振り返る。
撮影所から届く写真を切り抜き、タイトルを手書きしてポスターや広告デザインを作る仕事。器用にこなせていたものの、映画製作には関わらず、スターの顔を見ることもない。広告の仕事への認識も低く、どこか「末端の仕事をさせられている」との不満が募った。花形の撮影現場で働いてみたい―との思いが芽生えるのは自然なことだった。
そんな時、撮影所への異動を推薦してくれたのが、スチールカメラマンで後に「津軽じょんがら節」などの監督を務める斎藤耕一だった。彼の働き掛けもあり、撮影所に移った千葉は美術監督久保一雄らの下で助手を務めるようになった。
映画美術の経験を重ねつつ、現在まで続く映画専門誌『シナリオ』の装丁を手掛けていた千葉に、美術監督小池一美を通じて日活から引き抜きの話があった。映画製作を再開したばかりの日活は、他社所属の俳優、スタッフを精力的にヘッドハンティングしていた。新しく豪華な撮影スタジオの存在が、千葉を含め多くの映画関係者を引き寄せた。千葉が日活へ移ったのは、55年のことだった。
日活でも「銀座の女」などで助手を務め、56年公開の島倉千代子主演「乙女心の十三夜」で初めて美術監督を担った。25歳という若さでの起用だった。「大学で美術を学んだスタッフが少なかったから。製作を始めたばかりの日活は師弟関係のようなしがらみがなく、自由にやれたのも良かった。自分の力というより、周囲の状況がそうさせた」
同時期に、松竹から日活に移籍した同郷の映画監督がいた。田名部町(現むつ市)出身の川島雄三である。川島の代表作となるフランキー堺主演の「幕末太陽傳(でん)」に、千葉は美術監督として参加することになる。
川島と共に「わが町」「飢える魂」を生んだ中村公彦が病み上がりで製作にあまり参加できず、中村との連名での美術監督として、千葉に白羽の矢が立ったのである。川島と組むに当たり、偶然、川島の実家そばに住んでいた親戚の存在がコミュニケーションの助けになった。撮影の合間には、親戚の話で盛り上がったという。
この作品では、実在した遊郭「相模屋」を再現。当時はホテルになっていたが、中に入れてもらい、壁を金づちでたたいて昔からの柱の位置を確認するなどして、可能な限り忠実にその姿をよみがえらせた。日本映画史に残る名作誕生の現場に、千葉はいた。
千葉は、川島について「喜劇作品も多く、笑いの神髄を知っている人だが、本人はあまり笑わない印象。汚い現場でもジャケットを着て、ネクタイをシュッと締めていた」と思い返す。千葉も仕事の現場ではきっちりしたスタイルが多くなり、「自然と同郷の川島さんに影響を受けたのかもしれない」と笑う。