Free(4)「東京芸大にて」 文京区紋章をデザイン
突然、腹に猛烈な痛みが走った。盲腸だった。
青森県立八戸高を卒業し、上京した千葉一彦だったが、間もなく入院を余儀なくされた。2日後に東京芸術大の入学式を控えていた段階での、思わぬアクシデントだった。
おまけに、術後の処置が悪く腹膜炎を起こしたり、抜糸が不完全であったりと、災難続きで腹部に3度もメスを入れる羽目になり、大学での勉強は1カ月余り遅れることとなった。
東京芸術大の工芸技術講習所では、絵画や彫塑、グラフィック、漆芸、陶芸から立体造形や空間計画まで、伝統技術と近代デザインを融合させた芸術教育を受けた。この、美術のエリートが集うハイレベルな教育環境に、皆より一歩遅れて飛び込んだ千葉は「実技などは簡単には追い付けないし、遅れた分だけ周囲にもなじめない。もう八戸に帰った方がいいのではないかとも考えた」と、入学早々ピンチを迎えていた。
そんな時、住んでいた文京区が、紋章と区歌を募集していることを知った。不運続きの自分はこのまま芸術の道を突き進むべきか、諦めて帰郷すべきか…。「運試しのつもり」で紋章を応募してみることにした。
デザインは「文」の一字をモチーフにした。頭文字は紋章によく用いられるが、「一字で区の特徴を表現したかった。この街は江戸時代、昌平坂に学問所ができた場所で、学校が集積している。また、夏目漱石など多くの文人が愛した」とその意図を振り返る。円から三つ翼のような物が延び、未来に羽ばたくイメージも込めた。
縁起が良いらしいからと母に薦められた「千葉喬弘(たかみつ)」のペンネームで応募し、それが奏功したのか、作品はまさかの1位。発表会では、わずか19歳の若者が、区歌を作詞した詩人・小説家の佐藤春夫、作曲の弘田龍太郎といった各界の大物と壇上で肩を並べた。
「不運で始まった東京生活をこのまま続けていいのかどうか、紋章の応募に懸けてみた。選ばれた時は単純にうれしいという気持ちもあったが、背中を押してもらったという思いが強かった」。千葉は、失いかけていた自信を、紋章によって取り戻すことができた。
大学2年の時、八戸市でも市勢要覧のデザインを手掛けている。1952年、東北地方(新潟県含む)7県市議会議長会総会の八戸開催記念号である。どういうわけか、同じくまだ大学生だった親友岩岡三夫(のち青森県議)、橋本賢司(のち八戸製氷冷蔵専務)が資料収集や編集に協力していたこともあり、装丁を依頼してきたのだという。
表紙から各章の扉絵、記事中の解説イラストまで千葉が担当し、表紙の色から「黄色い本」と呼ばれた。
産業工芸といわれる分野を専攻した千葉は、当時脚光を浴び始めていた家電製品や自動車メーカー、建築インテリア関連の仕事に進むことを希望していた。
ところが、ここでまた千葉を全く別の道へと導く存在が現れた。北海道出身の学友である。無類の映画好きであった彼は、学内の掲示板に映画会社東映の「幹部採用第1期生募集 美術分野 採用枠1名」の張り紙を見つけ、千葉に受験への同伴を求めた。気楽に付き合おうと千葉も受験したものの、元々興味がないため、映画の知識を問う筆記試験は当然点数が取れなかった。