Free(1)「“べらぼう”な塔」 岡本の構想実現を支援
今から半世紀も前の話だ。大阪府吹田市の大地に、高さ約70メートルの“べらぼう”な建造物が現れた。
黄金の顔に、手を左右に広げた白い巨体。胴の前面と背面にも顔を持つ。希代の芸術家・岡本太郎(1911~96年)が、70年の大阪万博のために創り上げた作品「太陽の塔」である。
この塔の姿が完成に近づく頃、岡本はふと、傍らにいる長身の男性にこう語り掛けた。「どうも、腕はもう少し後ろに反った方がいいな。どうだ」
次の日、男性が「建築の方に相談して直しました」と報告すると、岡本は「そうだろう、良くなったろう」と言い、にやりとした。この段階で、25メートルもの腕を反らせることなど容易にできるはずがない。太郎は分かっていて戯れを言い、男性もそれを承知の上で冗談に付き合ったのだ。
当時、名建築家丹下健三(1913~2005年)が設計したお祭り広場の大屋根を突き破る形で起立していた太陽の塔は、世界中の人々の度肝を抜いた。それからちょうど50年。万博のシンボルは、大阪の顔として、「世界のTARO」の代表作として、広く親しまれ続けている。
この連載の主人公は、岡本太郎ではない。太郎の傍らにいた長身の男性の方である。名を、千葉一彦と言う。
太陽の塔を核とする大阪万博テーマ館のサブプロデューサーの一人だ。まだ30代後半の若さであった。八戸市八幡町(現内丸)に生まれた千葉は青森県立八戸高、東京藝術大を卒業し、映画界へ。その後、岡本と出会い、万博に関わることとなった。
岡本は地下、地上、空中の3層に分けて己の構想を展開しようとしていた。地下はSF作家小松左京、空中は建築評論家川添登を補佐役に起用。各界の第一人者に交じった千葉は、塔内部の「生命の樹(き)」も含む地上担当だった。
岡本はこう言っていたという。「小松さんはでっぷりしているから地下だ。川添さんは小柄で動作も機敏だから空中だ。千葉、お前はひょろひょろ背が高いから塔(地上)だ」
だが、小松と川添は多忙で、頻繁に現場に足を運ぶことはできない。役割分担されていたはずが、結果的には、千葉が全体で岡本の構想実現をサポートすることになった。「私は映画界ではある程度知られていたが、社会的にはほぼ無名。その分、岡本先生と二人三脚でやれた。当時は大変だったが、思えば幸福なことだ」。東京都に住む88歳の千葉は今も、一大プロジェクトに参加した日々を鮮明に覚えている。